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「兵隊店」? これ何屋さん?

兵隊店

 半田市成岩にある名刹・無量寿寺を訪ねた。
 無量寿寺にも感動したが、それより何より、驚きが日常にあった。
 お寺への参道の入口に「兵隊店」との看板がある大きな店があった。既にシャッターが下ろされ閉店してしまっているようだが、この店、何屋さん?
 誰か教えて!

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テーマ : 愛知県 - ジャンル : 地域情報

新美南吉の常夜燈

南吉の常夜燈

 新美南吉の生家前に立つ常夜燈。この常夜燈は南吉の悲しみや喜び、そして初恋もみつめていた。
 常夜燈の台のあたりの小さな穴がいくつか掘られている。この穴は、少年だった南吉たちが掘ったものだ。こんな穴をこつこつと掘り(削りかな?)、そこに花を挿したりして遊んでいたのだ。当時の子どもたちは、根気がよかったのか、ほかに遊びがなかったのか、感心するほどのマメさである。この穴を一つ掘るのに2、3日はかかったはずだ。
 そんな遊び仲間にツルという少女がいた。その子が南吉の初恋の人。南吉はツルを意識しないふりをして意識する。そんな南吉の姿を、常夜燈はニコニコと見守っていたのだろう。

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

明治天皇の茶碗

明治天皇の茶碗

 明治23年3月、日本初の陸海軍合同大演習が知多半島で行なわれた。
 同、3月31日は、春台風を思わせる豪雨。その中を天皇は今の半田市に設営された「大本営」を出発、乙川村にある丘陵地、白山の山頂に立たれ、大演習を統監された。
 はんだ郷土史研究会発行の「知多半島 郷土史往来」によれば、「天皇は雨具も召されず、馬上で小1時間、演習を統監された」とあるから、全身びっしょりの姿であったろう。
 そこで、天皇はお茶を所望。地元の人が近所の寺に走り、お茶を運んできた。寺の住職も、地元の人も、まさかこの場所に天皇がいるとは想像もせず、ありあわせの土瓶や茶碗を使った。写真がそれである。粗末な、いかにも日用品の茶器。それにご丁寧に盆の縁まで欠けた品だ。
 これで明治天皇はお茶を飲んだ。

 お茶を差し上げた住職に茶器を返す際、将校がお礼の銀貨1枚を差し出しながら、「お茶を召しがったのは天子さまであるぞ」と言った。聞いた住職は豪雨の中、ぬかるみにひれ伏して、失神したようにしばらく立てなかったという。さもありなん。
 この茶器? はんだ郷土史研究会の「お宝展」に出ていたとき写したもの。茶器は同会が所蔵。話のネタは前記の本。
 実に面白いので紹介した。

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おもろうて やがて悲しき

女相撲

 明治から昭和初期にかけて、女相撲がさかんだった。女相撲といえどプロ集団である。全国を巡業して廻っていた。
 ハッケヨイの取組ばかりでは人気に限界があったのだろう。こんな「腹の上での餅つき」パフォーマンスをして祝儀、すなわちチップにありついていた。見てください、6俵の上で2人で餅をついている。ゆうに300キロはあるはずだ。

 女力士の腹の上で餅をつく、ドスコイ、ドスコイと何臼も餅をつく。狙いは祝儀ばかりでなく、もち米だという。もち米を持って来てくれたら、くれただけ何臼も何臼もつく。腹の上でだ。食うためには痛いの辛いのなんて言っていられない。
 見物する方は、おもしろいだろう。拍手もくる。大歓声もだ。しかし、やがて憐れさも… こうして巡業をかさねる女相撲一行であったのだ。
  おもろうて やがて悲しき 道化かな  
そのものの土俵風景である。

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常滑・土管坂

土管坂

 久しぶりに常滑市の土管坂に行った。友人の個展(といっても素人だが)へ義理で覗きにいったのだが、そんなことより土管坂の変わりようにびっくりした。
 もともと焼き物の失敗作や破損品を、粘土質で滑りやすい坂道に足場代わりに置いたり、塀の代わりに焼酎壷や土管を積んだのが始まりだったようで、ぼくが最初に見た頃、と言っても10数年前は、それらが自然に溶け込み、生活観もあり、なかなか味わいのある場所だった。
 ところがどっこい、写真のように「どうぞ観光を―」の土管坂に変貌。これはこれで良いにしても、あの味わいからは、ず~と遠い。
 淋しいと思うぼくの感性は…
 ついでに友人の個展だが、これも「観光用」で芸術にはほど遠い。友達だから言うんだぜ、F君!

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